法 語
法(のり)のことば (3)
秋本 勝
『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』2・26:
この世で
自らを灯火とし 自らを頼りとして
他人を頼りとせず
法を灯火とし
法を拠り所として
他のものを拠り所とするなかれ
(中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫)
【解説】 この句の意味は「他人の言に振り回されることなく、自分でしっかり考えよ。しかし同時に、自分の考えに固執せず、法(=真理)に従いなさい。」です。
釈尊が最後の旅の途中で説かれた、いわば遺言です。私達は他人の言う不確かなことや噂に左右され、自分を見失うことが多く、自分があくまで正しいと我を張ることもよくあります、自分が法であるかのように。しかし、それでは真実に出会えません。自分には不都合でも、法すなわち真理に依ることこそ究極の智慧、絶対安心に至る道です。そこに至る時、自己と法とは一体になるのです。
なお、「灯火」は原語では「島」、「洲」が正しいようですが、漢訳では「自灯明、法灯明」、「自帰依、法帰依」です。法に照らされて生きていきたいものです。
『ディーガ・ニカーヤ』所収「シンガーラへの教え」:
(中村元『仏典のことば』岩波現代文庫 参照)
[真の友とは]
助けてくれる友
苦しいときにも楽しいときにも友である友
ためを思って話してくれる友
同情してくれる友
【解説】 世間でも「まさかの友が真の友」と言われます。
「助けてくれる友」の例として、注釈におもしろい説明があります。酔っぱらって路上で寝込んだ友のそばで、持ち物を盗まれないよう眼を覚ますまでいてくれる友、また、安い手当てで仕事をしようとする友に、その仕事なら倍はもらえると助言してくれる友などです。
「同情してくれる友」の注釈には、自分の友を「あいつは醜いし愛想が悪く、生まれも品行も悪い」とけなされた時、正反対のことを言ってほめてくれる友とあります。
サンスクリット語では、友はミトラ、友情はマイトリーです。漢訳は「慈」、慈悲の慈です。ちなみに、悲はカルナーで同情です。さらに、弥勒菩薩はマイトリーの派生語マイトレーヤで、慈氏菩薩とも訳されます。
『サンユッタ・ニカーヤ』12・20
このこと(縁起)は、
如来が世に出ようとも
あるいは出なくとも 定まっている。
法として 定まっていることであり、
法として 確立していることである。
【解説】 縁起とは「縁って起こる」ということです。
釈尊は、老死の苦しみがどこから来るのか、その答えを求めて出家しました。そして、老苦・死苦はこの縁起を知らないこと(無明)から来ると覚りました。
此縁性ともいいます。「これあればかれあり、これ生ずればかれ生じ、これなければかれなく、これ滅すればかれ滅すること」です。二者の関係がこのようであるとき、これが原因であり、かれが結果であるというのです。
あらゆるものはみな無数の原因や条件によって成り立っています。だから、自分の思い通りにはならないのです。
この縁起という法(真理)が如来(仏)の出現の有無にかかわらず定まっているということは、法はいつでも我々の前に開かれているということです。
『歎異抄』第13条より
我が心の善くて
殺さぬにはあらず。
【解説】 この句の意味は「私が人を殺さないのは、私の心が善いからではない」ということです。
私達は善いこともするが悪いこともします。それらは様々な縁によるのです。一歩間違えば殺人さえやりかねない。戦争では殺した人の数が多いほど英雄です。
犯罪者は特別な悪人、自分とは無関係な存在なのでしょうか。人間は、法を犯さないまでも、「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく・・・」と親鸞聖人は煩悩に汚れた人間の姿を直視されています。
私と向き合うとは、煩悩にまみれた自分に気づくこと、そのありのままの自分を認めることではないでしょうか。そこにしか真実に出会う契機はないのだと思います。
『歎異抄』第2条より
いづれの
とても地獄は一定すみかぞかし。
【解説】 この句の意味は「どんな実践修行も、私のような身には完遂できるはずもないので、地獄は私の定まった住居だと言う他ありません」ということです。
『歎異抄』のこの句はよく引用され親しまれてもきました。ここにも、煩悩にまみれた人間の、否、自己の姿を徹底して見つめる親鸞聖人の厳しい態度が窺えます。
他方、「よきひと」法然上人に出会って、煩悩にあえぐ自分自身が阿弥陀仏の本願に救いとられていることに気づかされた喜びを、この書でも随所に表されています。
喜びは、ただ自己への甘えを呼び起こすことなく、あくまで、自己のありのままの姿を見つめる態度と表裏です。この態度に少しでも近づければと思うばかりであります。
『歎異抄』後序より
弥陀の五劫思惟の願を
よくよく案ずれば、
偏へに、
親鸞一人がためなりけり。
【解説】 この句の意味は「阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に、五劫というとてつもない長い時間をかけて考えに考え抜いた誓いをたてられたが、よく考えてみると、ただこの親鸞ひとりを目当てにしたものであった」ということです。
阿弥陀仏の誓いは私達一人ひとりにたてられている、つまり、仏の願いは私にこそかけられたものである、と親鸞聖人は主体的に受け取られたのだと思います。
よく、仏はすべての生きとし生けるもの(一切衆生)を救うと言われる時、それは何か他人事のようにも聞こえます。しかし、この句には、苦悩に満ちた私にこそ仏は働きかけられていると受け取った感動が見取れます。これがまさに仏との出会い、真実との出会いと言えましょう。
『ダンマ・パダ』63
もしも愚者がみずから
愚であると考えれば、
すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかも
みずから賢者だと思う者こそ、
「愚者」だと言われる。
中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫
【解説】 この句の意味は、特に解説を必要としないほどに簡潔明瞭です。同時に、みずからを「愚者」であると見つめさせられる、深い響きのある言葉だと思います。
自分を愚かだと思う者は、すでに愚かではない、しかし、自分を賢いと思う者こそ愚かであると。人間は愚かしい、しかし、同じ愚か者でも、全く正反対であると。
このブッダの説くところは、長い時を経て、法然聖人や親鸞聖人に現れます。二人とも、みずからを「愚痴の法然坊」と呼び、「愚禿親鸞」と呼ばれました。ブッダのこころがそのままにこの二人の聖人に伝わったと言えましょう。あるいは、法(真理)が法として働いて、二人をしてそう呼ばしめたとも言えましょう。
合 掌
『ふんだりけ』2010〜11年(京都女子大学・宗教部発行)より