雑談帖 — 本を読む


目次

《『ブラッドタイプ』松岡圭祐,徳間書店》 2006/09/19(Tue) 00:28:31
《昔読んだ本:『音楽の国のアリス』》 2006/06/19(Mon) 01:22:00
《「アインシュタインの予言」》 2006/06/07(Wed) 12:43:07
《サンゴのちからは海のいのち。》 2006/05/25(Thu) 20:41:51
《ソトコトのいやらしさ》 2006/05/25(Thu) 20:07:35

雑談帖目次へ

《『ブラッドタイプ』松岡圭祐,徳間書店》 2006/09/19(Tue) 00:28:31

血液型性格判断によって引き起こされる偏見や差別,自殺的行動など に立ち向かう3人の臨床心理士のアクションストーリー。血液型に関する 迷信を払う意味では,それなりに意味がありそう。


《昔読んだ本:『音楽の国のアリス』》 2006/06/19(Mon) 01:22:00

小学3年か4年の頃,当時家族と離れて東京の祖父の家に住んでいた姉が帰郷した夏の土産に, この本が入っていた。岩波の少年文庫の中の1冊だった。

少女アリスがオーケストラリアという国に地下鉄のような鉄道で迷い込み,オーケストラの楽器たちが住む町々を訪れていくという物語である。順序は忘れたが, 木管楽器はパノポリス,弦楽器はフィドラデルフィア,金管楽器はブラシーデールという町 にいた。楽器たちはそれぞれにいろいろな体と性格をもっていて,ちょうど不思議の国で,少女アリスがが三月うさぎと帽子屋だとか,いもむしだとか,一風変わった住人たちと出合って不思議な体験をする,あの物語と同じように楽器たちと出合ってさまざまな体験をしていく。子どものための一種の音楽教養読み物と思ってもらえばいい。記憶では ティンパニやトライアングルも登場していたので,たぶん打楽器の町もあったはずなのだが,残念ながら思い出せない。

この物語ではメンデルスゾーンの真夏の夜の夢がかなり大きなシーンを作っていた。 音楽が鳴り出すと,女王のタイタニアやオベロン,パックといった登場人物がアリスの 目の前に現われてきて,生き生きと芝居を繰り広げるのである。これは 魅力的だった。 未だ聴いたことのないメンデルスゾーンのこの音楽をオーケストラで聴くと,本当に人形のような登場人物が現われるのかもしれないと思い込んだのだ。

幼年時代の私は,読んだことや言われたことをそのままあることだと思ってしまう傾向が強かったようで,真夏の夜の夢を一度聴いてみたいという夢をその時に抱くことになった。しかし何せ山間地の集落に暮らし,家にある蓄音機のレコードは童謡ばかりである。 NHKのラジオで音楽の泉(そのころたぶん堀内敬三が担当していた)を日曜の朝に聴くのは好きだったが,本物のオーケストラどころか,ステレオもない環境だった。FM放送もまだない時代だ。

そんな環境だったからこそ,本に書いてあることが実際に起こるのかも知れないという思いはずっと続いた。さすがに物理的に実体をもったものが現われることはないだろうが,脳裏にその舞台がありありと現われるのかも知れないという程度には期待したのである。

幸いなことに,中学1年に上がるときに家族と近くの地方都市に引っ越して,多少は文化的な環境に住むことになった。新しい友人たち の中には家にピアノやステレオがある人もいた。そしてある日,同級生の女子(お父さんがたしか中学の先生をやっておられた長友さんという人)のお宅に伺って, 憧れのメンデルスゾーンを聴いたのである。しかし,目の前にも目をつぶった想像の世界にも,タイタニアやパックは出てこなかった。

とはいえ,この本のおかげでオーケストラの楽器は全部覚えたし,もともと好きだった音楽への憧れを大きく膨らませてくれたことは確かである。ネットを検索すると同じような思い出のある人もいるのか,かなりヒットするし,原題と原作者で世界中を検索するとさらに数多くの関連するサイトが見つかる。

しかし,実はこの本には問題があるのだ。それはあまりにもひどいクラシック至上主義と大衆音楽の蔑視である。

アリスが村はずれを通りかかると,そこにはみすぼらしく粗野な楽器たちがいた。ギターやサクソフォン,それにバンジョーやコルネットもいたかも知れない。物語の中で,案内役はアリスに,「あんな卑しいやつらは・・・」と,当時のジャズなどの大衆音楽で使われていた 楽器たちを露骨に否定することばを吐くのである。

昔読んだときに,この場面に別に違和感を感じたわけではない。しかし時を経て 思い出すたびに,作者のこの記述については音楽のジャンルに対する強い差別的な偏見 を感じてしまうようになった。出版年が1930年代らしいので,当時のクラシック界は そんなものだったかもと思ったりしないわけではないが, ジャズをクラシックに持ち込んだ ガーシュウィンや,あるいは ジャズやサクソフォンを大胆に取り込んで傑作をものにしたラベルと大体 同時代だったはずなのに,音楽の専門家であるはずの作者のこの偏見は何なんだろう。

そんなわけで,多くの人にとって 思い出は美化されるものかも知れないが,私にとってはやや複雑な 思いの残る本なのだ。

参考までに原題と作者を紹介しておこう。

"Alice in Orchestralia",  Ernest La Prade


《「アインシュタインの予言」》 2006/06/07(Wed) 12:43:07

こんなのがごま書房の『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』というのに 乗っているのだそうだ。

近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。
で,アインシュタインはこんなことは言っていないということを研究者が発表したらしい。その前に,こんなことを言うわけないのは明白すぎて,「水からの伝言」のバカバカしさと 同様に,はなっから笑いたくなるのだ。アインシュタインの行動と思想に多少なりでも触れる機会があったら,まったくのデマであると断言できる。彼の立場はむしろラジカルな国家否定論者なのだ。

これを報じた朝日の記事(京都版6月6日夕刊)によると,結局のところ戦前の国粋主義者の田中智学という人物が,自分の書いたものをドイツのシュタインという法学者のことばとしてでっちあげたものらしい。国粋主義者だったら西洋のえらい人の権威など借りないでほしいものだよねえ。ま,自分の言葉は貧しくて,結局のところ西欧コンプレックスでもお持ちだったのではないだろうか。

でもこんなふうに捏造した「外国人の言葉」を大々的に書き散らしてくれた他の国粋主義は ごく最近まで生きていたことを忘れてはいけない。山本七平である。かれは『ユダヤ人と日本人』というウソだらけの本をイザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたと偽って出版して,結構なベストセラーになった。これも,書いてあることがあまりにも荒唐無稽な上に,結局日本の軍国主義復活オヤジの言っていることと何も変わらないので, 神学者の浅見定雄によって完膚なきまでに馬脚を暴露されてしまった。

しかし『ユダヤ人と日本人』はそれでも文庫本になって未だに出版されている。出しているのは,そのレベルにふさわしい出版社だ。こうやってデマはいくらでも世代を超えて伝播していく。きっとごま書房(これもひどい本を出しているところだ)も,この報道なんか馬耳東風の体で,ウソの書かれた本を出し続けるのだろう。


《サンゴのちからは海のいのち。》 2006/05/25(Thu) 20:41:51

これはソトコトに掲載されている広告のコピーである。これだけで紙面の大半を占める 大きな活字だから,きっと1字につき何10万円かするのだろうなあ。そして,

地球温暖化による海水温上昇などの影響が(さんご礁の衰退の)原因のひとつに あげられています。
もっとサンゴ礁のこと,海のことを考えてください。
この広告主はどこの会社か想像がつくだろうか?私は目を疑った。 三菱商事である。

三菱系資本は,日本でも最大の軍事産業のひとつである。ミサイルや戦車や戦闘機の 製造で三菱重工が中心となっていることは誰でも知っている話だ。そして アメリカと日本政府が沖縄に押し付けようとしている辺野古沖の軍用空港の 工事が着工されれば,三菱はそこでも巨額の儲けを懐にするにちがいない。もちろん 世界に誇る最大級のサンゴ礁は壊滅的な打撃を受けるだろう。辺野古を守るおじいや おばあたちがこの広告をみたら,なんという嘘つきと怒りまくるに違いない。 戦争,そして戦争の道具を作ることは最大の環境破壊であり,資源の浪費なのだ。

そんなことには口をぬぐって,いかにもエコでファッショナブルな広告を出す神経もすごい,というか こんな広告で騙せるような読者層だということを,広告主はせんから見通しているのかも 知れない。


《ソトコトのいやらしさ》 2006/05/25(Thu) 20:07:35

ソトコトという雑誌でマイナスイオンだの水からの伝言だのというニセ科学が好意的に 取り上げられていることはちょっと書いた。しかしそれ以前に,この本の実物を 手に取る前から,新聞の広告欄で見たときからぷんぷん臭うなあと思っていたものがある。実際手にしてみて,その臭いの予感はまぎれもなく当たっていた。中産階級の自己満足型の エコロジストポーズである。30年前ならちょっとインテリちょっと金持ちの心情左翼 というところか。

まぎれもなくソトコトというのは金持ち,それも大資本家というよりも,高給取りや 知的職業の自営業を読者として想定していることが分かる。ぜんぜん下品じゃないし, 美的趣味はいい。ちょっとは反体制的な言動で知られる坂本龍一などは,この本では もっともシンボリックなスターになっているし,環境問題への関心もきわめて高いようだ。

しかし,環境問題への関心というのは,この本ではスタイリッシュでエコなライフス タイルとして登場しているのであって,現在の環境破壊を具体的に告発するわけではない。 諫早湾も辺野古も登場しないし,ゴミ投棄の問題も出てきはしない。社会的関心は 本来政治的関心と一体のもののはずなのに,その部分はきれいに切り抜かれているのだ。 異国の野生生物を守るためのコンサートに登場する一流アーティストのハンサムな 写真,南海の楽園の先住民の癒しの世界に触れてエコロジーをポエチカルに歌うこと, 無農薬のハーブを味わうこと,自然との共生のイベントを体験すること,等々の 記事が,この雑誌の「環境問題への高い関心」の証らしい。 一方で,坂本龍一が登場するときには, アメリカの イラク侵攻に反対したような彼の行動の部分はまったく外されることになる。

私がいやらしさの象徴として感じる最たるものは,この本の出版社のサイト にも書かれている「エコとファッションは同一と言い続けて7年目」というせりふである。冗談じゃない。アウトドア愛好家とか自然派と称する連中が全国の浜辺から 野鳥を追い出し,四輪駆動車で森林を走り回り,そのファッションでギャルを ナンパするのをいくら目撃してきたことか。

本当にエコロジーを考えるのなら,快適さはかなり犠牲にせざるをえないというのが, 現実の話だろう。部屋が寒ければ暖房するのではなく重ね着をする。そのとき アンデスの少数民族の着る,実はすばらしく保温性の高い原毛の毛糸のセーターなんか 着ちゃいけません。普通の人がみなそれをやってしまったら,アンデスの 山村の経済はむちゃくちゃになってしまうのですよ。ある行動が持続可能であるといえる ための もっとも大事な基準のひとつは,「みんながそれをやっても破綻しない」といえるかどうかに あることを忘れちゃいけない。自分だけちょっとおいしいもの,自分だけ人と違った ちょっと高級なもの,などというプチ金持ち的発想自体がエコロジーとは対立する のだ。

エコとファッションは本来関係のないものである。むしろファッション という発想は,エコロジカルな行動とは矛盾することが多いのだ。 クールビズとかウォームビズとかいって,ことさら強調するのは,それが ファッションとしてはいまいちだからである。 もちろん,価値観が美から省エネルギーを軸にしたものに転換してしまえば, ファッションもエコっぽくなるかもしれない。が,やっぱりファッションとしては野暮すぎて, 市場原理にしたがってさっさと姿を消すに決まっている。

さてこれ以外に,科学技術をこの雑誌がどう捉えているのかという点についても,大きな矛盾が見られるのだが,それはこの次。