太原から南西へと国道をバスで2時間ほど走ったあたりの 山中にある 玄中寺 が今日の目的地である。 浄土信仰の創始者である 曇鸞をを 開祖とし 日本においても浄土宗の祖庭とされる古刹であり, 今回の旅行における重要な訪問先でもある。 8時半という普段より遅い朝食の後,バスに乗り込んだ。
快晴の空の下ではあるが,ここでもやや霞のかかったような空の色である。 郊外に出ると,トウモロコシやヒマワリの畑が広がり,その向こうには 炭坑のボタ山や高い煙突と巨大な冷却塔をもつ火力発電所の建物が見えた。 ここでも大気汚染は大きな問題と見える。

太原郊外の工業地帯:左に見える三角の山は石炭の採取後の廃土の山(ボタ山),右に火力発電所
バスの車内放送のマイクは夜のうちに運転手が修理してくれた ということである。屈さんは昨夜の仕切り直しで,太原の地理や歴史などを 解説してくれた。 玄中寺についてもかなり勉強してノートを 作っておられた様子で,あまりよくは分かっていないというのは 謙遜で,不勉強の団長にはずいぶんとありがたかった。
山西省は中国の北部内陸にあり,全体が標高 500 m を超える高地である。 新潟と大体同じ緯度にあるが,その地理的環境による冷涼な気候で, 冬には零下20度にもなる。 米は取れず,穀物は麦やコウリャンが主である。 一方,地下資源には恵まれており,100を超える種類の鉱物を産し, 殊に石炭は上質の無煙炭を始めとして産出量が多い。 ざっとこんなことを聞きながら,窓の外を眺めていた。たしかに 目的地に近づいて山沿いの道に差しかかっても,いくつもの炭坑を見た。

到るところで見た小さな炭坑のひとつ
太原から 玄中寺までは 南西におよそ 70 km の道のりだが, その途中には中小規模の工業地帯が点在しているらしい。 石材や鉄骨などを積んだ大小のトラックがたくさん走っている。 それに混じって, 目を疑いたくなるような代物も走っている。 下の車などは,日本の道路交通法ではまず認められそうもない エンジンむき出しの乗り物である。そもそも車用のエンジンで 動いているかどうかもよく分からない。そんなのが堂々と 走っているのだ。それと 屋根のないオート三輪車もかなり多い。これまで回ってきた地方ではまったく 見かけなかったのが,ここでは威張って走っている。鉱山と家内工業の地としての 歴史がこういうものを作ったのか,ちょっと興味がわく。

国道を走る不思議な乗り物(左)と屋根のないオート三輪車
同時にこの一帯は農業地帯でもあって,トウモロコシやヒマワリなどの 畑も多い。収穫した作物を運んでいるのは自動二輪で引くリアカーのような ものが多い。それも山のような荷物を横幅などおかまいなしに縛り付けて いる。それやこれやで,トラックや自転車やへんな乗り物やリアカーなど いろいろな車両が,それぞれの速度と存在感を主張しながら国道を好き勝手に 走っている。道路のほうもそれに見合っていて, 日本だったら往復6車線ぐらいはとれそうな幅を センターラインで分けているという大らかさである。

道路上をいろいろなものが走っている
ずっと道の右手に続いていた山並みがだんだん深くなり,バスは 山岳地帯に入ってきた。あるところでバス は山に分け入った。 山道に入るところには粗末なゲートがあり,「交城山国営森林公園」という案内板が 立っている。 掲げられている地図を見ると, 道沿いにいくつもの寺らしいものがあり, その奥に玄中寺と思われる立派な寺が描かれている。 後から考えると,この地図はそうとうにいい加減で, 現場を見もしないで適当に描いたもののようだ。 寺院の建物の配置などまったくでたらめで, 玄中寺に着くまでの途中には他の寺はない。

玄中寺への道のゲートの案内板
それはともかくこの地図には, 珍奇動物という文字の下にカモシカやトラの絵があったりするのだが, カモシカはともかくとしてトラが 本当にいるのだろうか。後で誰かに聞こうと思ったのだが, 残念ながら忘れてしまった。
山道は谷沿いである。両側にそそり立つ 山の間を登っていく。 つづら折りになった狭い道をバスは 登っていく。 しかし, トルファンの天池への道は険しい山道だったが, 今度の山道はどこか日本の山を思わせる樹林の間を 縫って走る。広葉樹と針葉樹の混在した林だ。 きっと秋の紅葉はきれいであろう。冬の雪景色も見てみたい ところだ。
少し行くと,谷あいのかなたの高いところに 白い塔が見えてきた。秋容塔といい,その上に 玄中寺があるらしい。

山道の突き当たりにある駐車場にバスを停めて, セミの声の中を玄中寺に向かう。急傾斜の 山肌に建物が点在するようすは,山形の立石寺を思わせる。 建物の屋根には中国風の黄色の瓦が使われていて, まさに深山幽谷の中の古刹の雰囲気である。
住職に案内されて,寺をめぐる。 阿弥陀仏の安置された大雄宝殿では,団長の先導によって,三帰依 を全員で唱和した。このときのために団長は三帰依を暗誦できるように 心がけていたのである。その後全員で香を献じた。

ところが,その後で 住職から,念仏を唱えなさいといわれたのである。 もちろん南無阿弥陀仏を唱えればよいのであるが, 何度か宗教の時間の講話に出させてもらった時の 見よう見まねでやっている 団長にはそのための心の準備がなく,どうしてよいか 戸惑ってしまったのである。
団長が あせって右往左往していると, 学生のうちから「先生,私たちでやりますよ」という 仏の声のような助け舟。そして全員で旋律にのせての唱和が始まった。 団長もそれには聞き覚えがあり,一緒に唱和して無事に 終わった。こういうことで若い人に助けていただけるとは, この上なくありがたいことである。
ここでいったん見聞録を離れて,私たちが 玄中寺を 訪問して知ったひとつの大切な事実を書いておく必要が あるだろう。これは寺内にその説明が記されていて, あらまし次のようなことである。
玄中寺と日本との交流は深い。浄土信仰の源泉をたずねてこの地の寺院を 再興するにも日本からの尽力があったのだが,さらには もっと歴史的に意義の深い交流がなされている。
第二次大戦中,中国から多数の人が日本に連行されて強制労働に 従事させられ,多くの病死者,事故死者を出したことは, 日本の戦争責任を考える上で忘れてはならないことである。 戦後,その反省に立って,日本の仏教関係者が中国人死者の遺骨を 郷里に返還する事業を興した。1950年頃のことである。 これはもちろん人道的な行為であるのだが,当時の冷戦の中では 大変に勇気のいることであった。
玄中寺における日本と中国の宗教者が 培ってきた信頼関係は,その事業において大きな推進力を 生み,遺骨の返還が進められたのである。そしてそのことは, 新たな信頼関係の発展にもつながり,今日に至る 玄中寺を舞台とした日中の友好が続いている。

ガイドさんについて寺を回り,説明を聞く
話をまた戻そう。 礼拝の後,ガイドの屈さんに案内されて各 坊をひと通り回った。 その後一行は住職が待ち受ける研修室に通された。大きなテーブルを囲んで 皆が座り,住職から寺の由来などについてお聞きした。 玄中寺の住職は 悟證大師といい, 出家の僧であるから常に黄色の僧衣をまとい, 肉食妻帯をせずに10年にわたって 修行しておられるということである。 また,この寺を発展させていくために 日本から多くの支援が寄せられていることに 感謝して,中国における浄土信仰の普及に,自分としても 全力を傾けたいといったことも語られた。
住職のお話を受けて,学生からいくつか質問が出された。 宗教的な内容の質問というよりは,修行僧としての生活についての 疑問が主である。出家の動機などについても尋ねられていた。
1時間ほどの話のあと, 悟證師がその場で筆をとって, 念仏を揮毫された。さすがに見事な筆跡で,見ていた一同から嘆声が漏れた。 鮮やかに書かれた書は学園への贈り物ということで,感謝して拝領した。